まず目につくのは、あまりにも感情的な言葉がそこいらじゅうにちりばめられているということ。
そこで小休止し、地図を取り出そうとした・・・が、どうやら沢で地図を流してしまったらしい。
入山者カードは、本日下山予定で提出したのが気にかかったが、携帯電話が通じないのでどうしようもない。
その間、何度か地図を見るが、 「ま、この地図は当てにならないしな」 と今では信じられない思考で、地図を軽視してしまった。
心配することなにもないじゃん!」と自分に言い聞かせた・・・が、不安は吹き飛ばなかった。
浄土平は空気が澄んでおりも少ないことからの好適地として知られ、福島市のが置かれている。
メンバーが携行したカメラに入っていたフィルムは、「白浜に達した時点でスキー板から剥がれてしまった滑り止めシールを粘着テープで留める応急処置をする場面」が最後の写真となっており、フィルム余白を残したままそれ以降シャッターが切られた形跡はなく、メンバー全員が窮地に追い込まれていたことを物語っている。
板屋か赤岩の駅に滑って行けば数時間で下山出来ました。
なんとか登ろうとしたがあきらめた。
もしこの時点で山荘に向かっていれば事態が変わっていたか、史実より早く遭難の発覚ないし捜索開始がされていた可能性がある。
net スコ焼き遭難として日本の山岳遭難史に燦然と輝く事件となったのは間違いない。
死者の霊を悼み、事故の再来を防ぐという意図があるなら、冷静に山岳遭難の経緯を検証して、死者の尊厳を傷つけぬよう淡々と表記すべきだと考えますが、この本はまさにその逆を行っています。
交通事故の場合、死を感じるのは一瞬だが、この場合、じわじわとやってくるのだから、本当に怖かった。
デジカメもビニール袋に入れた。
このように時間のロスが発生していたが、道中にある設備の整った山小屋「慶応吾妻山荘」 を通らず、当初の計画通り、緊急時の避難施設に過ぎない「家形山避難小屋」 へ向かうことを優先した。
でるのはため息だけだったことを覚えている。
やばいかなーと徐々に思い始めたが、「なーに、食料もあるし、暖をとることもできる。
前大巓(1,911m)• RFC特番「緊急ラジオはこだました~吾妻連峰遭難者呼びかけ放送」1994年12月25日放送 参考文献 [ ]• (1,975,3m)• 山は、危険なこともありますが、元気をくれます。